珈琲アディクション

こんにちは丸茂です。

珈琲を信じる者は救われます(嘘です

 

コロナが世界を襲って1年半?が経過しました。どの国の国民もこの災いと戦って苦しんでいます。感染機会は世界に平等に降りかかりましたが、戦い方は国によってさまざまなようですね。

道理を単純に考えると、マスクをつけて距離を取ってお互いの感染機会を減らす作戦は絶対的な効果を生むものではなくても「軽減する方向」に作用することは間違いないでしょう。

目的や目標が感染拡大を防ぐことにあり、手法も単純明快ですね。

しかしいろんなご意見やデマが飛び交うようになり、マスクが危険だったりワクチンにマイクロチップが入っていたり、最後はこれだけの被害にもかかわらず「コロナは嘘」なんていうものまで様々ですね。

団体や組織を運営する方の多くが一度は悩むことのなかに「目的と手法の混同」というのがありますが、営利目的の企業さんの場合、「目的」がどんどんズレていってることが多いと思います。儲けるために企業の目的を後付けする手法は日本企業に多い。

コロナによる被害を減らし、感染しても一人でも多く「死なないで済む」ようにするのは国民の安全を守る方に向かう考え方で間違いないでしょう。

 

さてアディクションです。

わたし、過去、趣味でランニングをしていたのですがひざの故障であきらめた経験をもってます。

ランニングは健康維持にとてもよくて、気持ちも軽やかになり、心身共に健康になれますよね。心からそう思います。

身体が軽くなり、ダイエットに成功し、ひとまわりもふたまわりも下のサイズのデニムを履けるようになりました。

ある日、膝というか脚の芯が痛いような鈍痛が始まり、次第に強くなってついに歩けないほどの痛みになってしまいました。

原因は過度のダイエットによるタンパク質不足。ランニングで消耗するエネルギーを脚から捻出していたという・・

精神的にはもうこのランニング中毒から抜け出すのは辛かったです。

3度の飯を抜いて楽しんできたのに「走れない」なんて、人間やめろというほど辛い出来事でした。

 

このとき僕の心の中には「走ること」が最優先事項で、仕事場から、研修先から、出張先でも走ることだけに喜びを見出す生活でした。

このことが一つの「バイアス思考」を生んでいたのでしょう。走る人の仲間を増やしてクラブを作り、シャツまで作って、走らない人との交流を避けるほどのめりこんでいました。だから「走れない」は自分の中では「ありえない」ことだったんです。

 

この信じて疑わない思考と間違いや失敗に気づかない思考は似ています。

僕はこのアディクションの淵から怪我をもって抜け出しましたが、過食や拒食におちいってしまう人や、仕事や家族を犠牲にしても走ることを優先するような人も。

 

過信、妄信の類はどこにでも転がっていて、コロナの「マスクは害」「ワクチンは毒」「アメリカ製薬会社の陰謀」など、疑心暗鬼になった人々の心からどんどん生まれてきますね。ランニングこそ全てと信じ切っていた僕のように膝の筋肉がやせて半月板を失うときが来るかもしれません。

 

「ディズニーは中毒・宗教だ」という話をよく耳にしますが、どうでしょう。

人々が期待し、「これはよい」と信じる仕組みがそこにあります。目的や目標がブレてしまうこともありませんし、完成してバージョンアップすることもありませんから永遠といえるでしょう。

ディズニーにコロナは倒せませんが、もしかするとパークのルールを厳格に守ると目標を射抜けるかもしれませんね。SCSEの徹底はもしかすると国の機関に必要なのではないでしょうか。

 

珈琲アディクション(中毒)はどうでしょう。

珈琲を淹れる方法は千差万別。ドリップやサイフォンに加え、フレンチプレスやエスプレッソ、ターキッシュなどの器具を使う方法など様々な文化が知られ、採用されるようになりました。

それぞれの信者(笑)はもうこれこそが珈琲で他を圧倒する理論で我こそは珈琲教の教祖という方もいらっしゃいます。

どの方法がよくて、どれが嘘なのか。

 

もうこれはやってみるしかありませんよね。

僕の考えだと、キャラクターを殺して長時間焙煎をすれば芯もとれてまったりした珈琲になると思っています。反対に強火でフレッシュに焼けば芯が残り、酸味の効いたキャラ丸出しのカップに。

キャラを死滅させない火加減で限りなくフレッシュな焙煎がおそらく一番おいしいのではないか。と思っています。

豆の持っている特徴によりますが、成分量の濃い早く焦げる豆は焙煎初期から高反応で俗に「火通りがよい」などと言われますが、「薄豆」となんとなく悪い名前に聞こえてしまう種類は高温でガンガン行かないとキャラが失われてしまう。

豆の生産時期と入荷プロセス、保管状況などいろいろな条件で豆の個性は変わってきますから、ひとまとめに「こうだ」と決めつけるわけにもいきません。

試験的要素は必要で、経験やデータによる傾向を頼りに焙煎結果を成功に導くのです。

 

抽出もそうでしょう。

速く熱く、いやゆっくりぬるく・・

最初に落ちる珈琲は苦いから捨てるべきだ(?)

最後に残る泡はアクだから捨てるべきだ(?)

聴いてみると驚くような情報がまことしやかに伝わっているようです。

聴きたい信じたい情報だけが耳に入る。そういう状態を認証バイアスというらしいですね。論の正しさを証明するために不都合な情報を捨ててしまい、偏った状態から脱出できません。

 

前にお書きしましたが、抽出も基本的な理屈はあるものの、どう感じるかや豆の種類や焙煎度などカップを左右する要素はたくさんあります。

自論の「論」を導き出すプロセスに終わりがないこともまた事実なのではないでしょうか。相反する情報の排除は簡単ですが、一度「なぜそうなのか」を検討するといいですね。基本に照らし合わせながらあふれる情報を処理していくしかないのです。

 

さてちょっとだけコロナに戻りますが、実験的にコロナに罹っていろいろ試してみれば確かに経験から法則が見つかることもありかもしれません。

しかしいかがでしょう?これほど多く「かかるなキケン」と教えてくれる「情報」が流れています。しかしこれも情報が多い(多数によって偏っているように見える)からという理由から「少数の価値」に期待するバイアスがかかって「俺は違う」と科学的に立証された多くの情報を信じない人たちが現れるのですね。

うーん、実に難しい。

紅茶キノコで一儲けできそうです(笑)

 

誰かがいいました。至高の一杯を求める旅に終わりはない、と。

 

中毒になって、信じる者しか救わない壺業者を妄信するも、否定するものではありませんが、ほんの少し「こうかもしれない」と思うだけで、沼から脱出できることもあります。いや反対に深みにはまるかもしれませんね・・・

 

どうぞ皆さんも自分を信じて、この広い自由な珈琲の世界を存分に認証バイアスかけてお楽しみください。(BGMはエレクトリカルパレードです)