土砂災害の記憶

こんにちは

昨日書きかけたのに下書きを保存せずにシャットダウンして全消ししたのは僕です・・

 

表題ですが、過去の体験をちょっとドキュメンタリーにご紹介しますね。

この話はネットに住む古い友人たちの耳にはタコと一緒に焼き付いているのでくどいということなんですが、あらためて。

 

1995年7月

有線テレビ放送技術者としてビル内配線や都市型施設の設計をやっていたころの話です。

山の経験が深い同僚と、フライフィッシングをしに山に出かけました。今キャンプが流行ってるようですが幕営を伴う山行で、山深い渓流を行く計画でした。

詳細は控えますが姫川水系の渓流です。

釣りが趣味の僕と山の友人、魚や野営の話で盛り上がりながら現地へ向かいました。渓流の経験はあったものの、事故の経験はなかったのでまさかあんなことになろうとは思ってませんでした。

仕事終わりにそのまま新潟へでかけ、予約しておいた遊漁券と交換に現金と工程表を某店のポストに入れて山行開始。

3日間の工程で中腹の大堰堤付近をテンバとしましたが、天気がぐずついていたので山のプロの意見で里にとどまることにしました。

2日目まで順調に(貧果でしたが)過ごし、3日目の朝のことです。

就寝時に「雨が降っているから荷物を少し片づけよう」と、車に大物を積み込み、広い河原の片隅でテントにもぐって朝を迎えたんですが・・・

聞いたことのない川の音がすぐテントの横を流れているように聞こえました。

ジッパーをあけるとすぐそこに流れる水・・・

 

慌てて飛び出しましたが、昨夜焚いた蚊取り線香の容器はみるみる間に流されていき、テントのグランドシートは既に浸かっています。

「これはやばい」は二人同時の発声でした。

もちろん慌てて撤収して高い場所に避難しましたが、川の中心は既に濁流と化して大きな岩が流れてきていました。

橋桁に当たれば大きな「ごっ」という音と地響きのような振動がありました。

「本当に危険なのは川の音が静かな大きな流れになったとき」と聞いたことがありますが、その一歩手前でした。

”いろいろ”は置いておいて、本能的に逃げ帰ることを決め、言葉少なに車を走らせました。

中央道で帰ると決めていましたので、なにしろ姫川を上るルートにでました。

本流もやはり濁流と化し、姫が身を投げそうな勢いになっています。

橋を渡る場所が何度かあり、上から確認するも「怖い」の一言でした。

橋に当たる巨岩、そこら中から流れる洪水の嵐、命からがら逃げだしてたどり着いたのはワサビ農園。

「ここまでくれば大丈夫だよね、源流部なんだし」と、ワサビアイスを食べながらほっと一息つきました。

しかし、帰宅してみるとテレビのニュースがさっき通ってきた道の崩落を伝えています。お世話になっている某店は反乱によって孤立、広い範囲で災害が発生していることがわかりました。

翌日には長野県側で大きな土砂災害が発生、死者を出す大災害となってしまいました。

さらにそれを復旧するべく作業員の皆さんを追加で襲う土砂災害が発生して、作業はいったん見送りになりました。

最後に見つかった作業員の方は1年もの時を泥の底で過ごしています。

 

僕は間一髪のところを非難して生きています。

このことが大事です。

交通事故も、遭わない人はセーフです。ギリギリでもセーフってこともあるんですよね。

 

この経験から僕は交差点で信号を待つときも一歩下がるし、天候が荒れたら釣りにはいかないし、荒れた海に潜ることもしなくなりました。

 

避難って難しいと思うんですよね。

レジャーで軽く味わったからって偉そうにいうものでもないんですが、非難しなかったら完全に死んでました。

 

やばいと感じる前に、状況を見て非難しましょう。