コモディティ

こんにちは〇茂です

タイトルとは関係ありませんが今年は金木犀が二度、三度さきました。ツツジや桜まで咲いたそうです。

異常気象なんでしょうか。この先のことが気になりますね。

珈琲豆もこの異常気象で被害を受けていて、持続可能なのか気になります。

 

コモディティですが、グーグル検索によると「商品のこと」という説明を載せるページがヒットします。

次にコモディティ化というワードを説明されます。

 

珈琲豆のコモディティ化を嘆く前に、いろいろなコモディティについて考えてみましょう。

 

僕のアパレルと百貨店での経験をお話ししたいと思います。

 

アパレルというとファッショナブルで華やかな印象の職業に聞こえますよね。確かに青山のガラス張りのビルにサロンを構えるプレタポルテ(高級既成服)の端くれでしたので、なんとなくチャラチャラしていました(笑)

オートクチュールと違って既製服ですので、一型で3~5サイズ展開、バイヤーの発注に従って製造する方法でした。バイヤーは百貨店や専門店、自社展開の路面店などから集まってもらい、ファッションショーを開催して、台帳に発注量を記入してもらいます。発注会といいます。

この台帳を作るのも、舞台裏でモデルに着せるのも我々スタッフの仕事です。

モデルに着せた状態で撮影し、生地見本とともに台帳に貼ったりします。

 

生地は社長がヨーロッパに出向いて仕入れてきます。パターンを日本人向けに改造して服を製造します。

ヨーロッパの本社とは「ライセンシー契約」をとり、作ってもよろしいという許可をもらいます。

 

デザインや生地がほかにないテイストを生み出し、ブランドの個性を主張します。

服は主縫製のほかボタンホールやネーム、プレスなどたくさんの工場を回って完成していきます。生産工程も季節に合わせて組まれ、工場の仕事量も大変です。相当な手間をかけて作られていましたが、それなりの価値基準の中にあって、それなりの価格体で販売されていました。振り返ると、ボタンホール屋は同じホールを延々と、プリーツ工場は同じプリーツを延々と、みな量産するための分業だったのです。このことが直接コモディティ化の原因ではないと思いますが、同じような工場やプロセスで作られる服に、そう大きな違いは生まれてこないのかもしれません。

 

仕上がったドレスを百貨店に納品するにあたり、ショップで展開する小道具である服飾雑貨(チーフやアクセサリー)も我々が用意していました

 

専門のメーカーから仕入れますが、アクセサリーもライセンスによる量産です。

 

百貨店に軒を連ねた個性的なハイエンドアパレルブランドのなかにそれらの商品(コモディティ)は並びます。

 

ここまで進んでくるとお気づきの方もいらっしゃると思います。

 

百貨店に並ぶあのブランド品のハンカチ。作っている会社はだいたい同じです。どれも大体同じハンカチですね?柄が個性的なプリントだったりするので、区別はできるんですが、なんとなく同じです。しかしお値段がブランドで違ったりします。

このハンカチのように、煮詰めていった結果、価値の差別化が困難になっていく状態を「コモディティ化」というようです。

 

プレタポルテであっても、個性はやがて均整の取れた塊の中に埋もれてしまい、「百貨店で売っている服」に過ぎない存在になってしまいます。

袖のボタンホールが一つだけ色違いになったジャケットが流行りましたが、これほどまでに”差別化に必死”だったことが見て取れます。

 

やがて同じことの繰り返しになったブランドは価値を失ってしまうのです。先輩たちがボーナスをたくさんもらったブランドは音もなくスーッと消えてなくなりました。

 

コモディティ化はブランドを殺します。デザイナーも、アトリエも潰れてしまいます。

生産関係者のにも大打撃です。

 

サンヨーがバーバリーからライセンスを奪われました。

これはわかりやすいコモディティ化防止のブランド戦略だったということかもしれません。

サンヨーはモノづくりにかけて一流でした。サンヨーのバーバリーを着れば銀座でちょっと目を引くおしゃれな人になれました。

しかしこの一流なモノづくりをもってして、バーバリーが大量生産されてしまいました。本社のクオリティを超える「良い品物」が安価で大量に出回ってしまったのです。

本社のブランド価値は日本では通用しなくなり、いつの間にかバーバリーは「庶民の服」となってしまったのです。

 

百貨店を見渡せばこのコモディティ化はますます深刻な状態になってきています。だいたい同じ服。

 

現在の百貨店社員に求められている能力は売ることであり、売れる販売員をマネジメントする能力です。

 

百貨店の過去は、品質検査のために一点一点縫い目を虫眼鏡でチェックした時代もありました。

そのことが「他にない品質」や「間違いない信頼」を生んでいたはずです。

しかし品質管理はメーカーの責任、売れる場所を提供して利益を追求する合理化が進みました。販売員もメーカーからの出向者で、百貨店の社員が責任をもって品物を保証するシーンは過去のものになりました。

 

ビジネスモデルの崩壊に百貨店は苦しみます。なぜ売れないのか?

対策はEC事業を拡大、場所貸し不動産業化の推進です。

設備投資や維持費にかかわるコストなどをいくら削減しても経営は落ち込むばかりで、不採算になった店舗から閉鎖していきます。

 

もちろんこの「コモディティ化」だけが百貨店を追いやったわけではありませんが、百貨店で高いお金を出す意味がなくなったのは事実でしょう。

 

さて珈琲豆ですが、スーパーの棚にはコモディティ化した珈琲が並び、生産者が生産を維持できないまでに価格は下がり、社会的地位を失ってきました。

コモディティ化は深刻です。映画「A film of~」でもこのコモディティという問題を強く訴えています。

最後のシーン「(あれは)珈琲じゃない」は印象に残るメッセージではないでしょうか。確かにおいしいとは感じないのではないでしょうか。

時代的にも珈琲はコモディティ化するのにちょうどマッチした”商材”だったかもしれません。しかし生産者はコモディティ化によって守られることはなく、貧困にあえいできました。

貧困ビジネスはさらに珈琲の品格を落とします。

お金がない農家は十分な栄養を苗に与えることなく、野路栽培で得た豆を通りの隅に座って売って生計を立てていたりします。悪徳ブローカーは「その豆、全部買うから安くしろ」と買い取って、ほかの優良な豆に混ぜて農協のような組合に持ち込みます。

その豆は組合の基準を外れなければそれなりの等級で取引され、多少の混ざりものは見逃されてしまう。ブローカーはただ同然で入手した分量を高級豆の単価でまんまと売ってしまうのです。

安定供給のために、食品のコモディティ化は進みました。

 

しかし見渡せば日本にはいいものがたくさんあります。

北海道の小麦や東北のフルーツをはじめ、各地で生産される品種がブランドとなり、高値を付けるスペシャルな農作物たち。

工業や繊維の世界にもこういったスペシャルな商品はたくさんあります。

関の包丁や岡山のデニムなどもそういうことでしょう。

一部、水揚港がブランドとなる水産業界ではそのブランドを冠するために遠くからわざわざ持ち込むという裏技も行われているといいますが、産地偽装に近いそのやり方が認められてはいけません。

生産者は襟を正し、より良い品づくりに邁進しているのです。

あちこち話が飛びますが、百貨店時代に日本をテーマにする企画がありました。個人的に日本製の優良な品質や競争力のある品物が集結するものだと思って期待してみていましたが、内容は恐ろしく残念なものでした。

和柄プリントのコモディティを中心とした商品群が店内に飾られただけでした。

 

いろいろと絶望的な話ばかりになりましたが、希望は見えています。

 

珈琲もスペシャルティという全く特別な豆が現れています。

「ただ高い高級な豆」という印象をお持ちの方が多いでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。品物の価値というのはVとCの割り算で求められます。価格が安くても品質が低ければ損な買い物になっているのです。

だいたい同じの豆をできるだけ多く作り供給するコモディティと違い、苗の育成から精製まで、しっかりとコントロールされ、狙った品質に到達させるべく管理を徹底して生まれてくる本物の珈琲がスペシャルティです。

その流通はほぼダイレクトトレードになります。生産者から直接ロースターへ、そしてカフェや消費者へと流れています。少量生産(マイクロロット)なので、同じ豆をいつも楽しめるわけでもありません。

中間に業者が関与しませんが、船代や税関、手数料などの負担はロースターにかかります。

 

たったいま、市場で珈琲暴騰が起きています。これはコモディティを守るための現象です。スーパーでも我々ロースターでも、欠品は避けたいのです。需要と供給のバランスが崩れれば高騰もするし下落もする。

 

生産者が努力して差別化を図ったスペシャルティは毎年そのシェアを伸ばしてきました。さらに世界の生産者は高品質化への取り組みを進めています。

コモディティに流れる安価な量産から、しっかりと所得を得られるスペシャルティを扱う農家やシッパーが増えてきているのです。

 

このスペシャルティをダイレクトに購入できる仕組みを提供するサービスも増えてきています。僕の店でも小規模商社さんからの小ロット購入や、ダイレクトトレード斡旋による購入も行っています。

 

高品質な珈琲のトレンドはアナエロビック精製です。まだまだこの精製による珈琲は発展途上ですが、ナチュラルにもウォッシュにもない独特な風味が特徴です。

オファーリストを見てみるとどの国の農園もこぞってこのアナエロビックに挑戦してきています。世界が注目する技術に盛んに取り組んでるのです。

残念ながら僕はまだ買っていませんが、「これは」とおもうロットに出会ったら是非ご紹介したいと思います。

珈琲もその価値を独自の方法で発展させ、本物の生き残りをかけた戦いが始まっています。

安定供給が最重要とされてきた流通ですが、これからは「あるときしかない」価値や、独自の価値をしっかりとお伝えする手法が要になってくるような気がします。

マスマーケティングによる大量生産品の拡販を行うこれまでの仕組みは既に旬を過ぎていて、マーケットは神出鬼没なミクロトレンドが支配しています。

Twitterのタイムラインに流れる偶然にも注目されるそれらは、インフルエンサーが仕掛けているわけでもなく、ステマを流されているわけでもなく爆発的な人気を生んでしまうのです。潜在的に人々が欲しいと思っているモノたちなのです。

 

コモディティ化を防ぐのは一人一人の購買意識といえるでしょう。

そしてこの大量低品質からの脱却は、長く苦しいデフレスパイラルからの脱却を意味することなのかもしれません。

 

皆さんはいかがですか?

それでも海外で作られただいたい同じのコモディティを身にまとい、誰が決めたかわからない(低い)品質基準の世界が居心地よいと感じますか?

 

世界のクラフトマンたちが真面目に作った世界に一つしかない垂涎の品が、皆さんのすぐ身近な場所で手に取られるのを待っているかもしれません。